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「 起業リファレンス 」 は、前回の十一章で完結(仮想開店)を迎えたわけですが、店舗運営はこれからが本番となります。人気店・繁盛店となるために努力や苦労を重ねていくわけですが、現在の大手外食企業も同じように創業期の試行錯誤を重ねて成長を遂げてきたのです。今回は起業リファレンス“番外編”として、外食企業の実例を数多く見てきた論説主幹・坂尻高志氏による「大手外食企業の創業風景」をお届けします。

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東大在学中の1950年、日本マクドナルドの創業者である故・藤田田氏は藤田商店を設立した。通訳のアルバイトをしながら培ってきた 「ユダヤ商法」 により、女性客をターゲットとした宝石、ブランド商品、雑貨等の輸入で大成功を収める。
1969年には日本の資本自由化政策によって、外食の世界でもビジネスチャンスは世界各国に解放された。マクドナルド帝国の伝説的な人物であり、当時の社長であったレイ・クロックは、当然のことながら日本での提携先を模索していたが、日本ののらりくらりとした対応に半ば嫌気も差していたという。偶然のきっかけで顔を合わせることになったクロック社長と藤田氏は、瞬く間に意気投合して日本マクドナルドが誕生することになる。
1号店出店予定地として、藤田氏は銀座 4丁目の三越百貨店内に決定。その時の三越百貨店の店長は、あの岡田茂氏。この強引な決定にアメリカ本社は難色を示す。アメリカでの外食は、サバーバンと呼ばれる新興住宅街を中心に、≪この章 第一回目≫で述べたドミナント展開をすることによって発展してきた。 この戦略は、日本でもファミリーレストラン業態の展開の基本になっている。若い消費世代をターゲットとし、車ありきのビジネスモデルである。もともとファストフードの商品は、ハンバーガーであれシェイクであれ、車の中で片手で簡単に食べられることを前提に開発されたもの。マクドナルドの成功法則も同じであるため、1号店を銀座のど真ん中に出店するなんていうのはとんでもない話なのであった。
当時の藤田氏にどれほどの外食出店ノウハウがあったのかは解からないが、銀座4丁目の出店は目立つことは間違いない。マクドナルド出店からさかのぼること9ヶ月前、アメリカ方程式通りにオープンしたKFC名西店が苦戦していた(第一回目参照)事実もある。そして、 1971年7月20日、たった39時間しか与えられなかった工事期間をクリアし、日本マクドナルド1号店はオープンした。マスコミ各社は、アメリカの顔であるマクドナルドの日本出店を大々的に報じ、TVでは歩きながらハンバーガーを口にする若者達の行動や躾について熱い議論が交わされていた。
藤田氏の読みは的中したのだが、当たらなかったのは 「売上」 である。日商平均で約30万円。事実、今の標準店の1/3にも満たない狭い店内と、1号店での未熟なオペレーションでは爆発的な売上は無理な話である。そこそこの売上は確保できたが、1号店としては物足りない。さらに、もっと藤田氏を悩ませたのは、矢継ぎ早にオープンした2号店(7月24日オープン:代々木店)、3号店(7月25日オープン:大井町店)がまったく売れなかったことにあった。
出店計画はそこでストップし、出店基準の見直し、コンセプトの再構築に時間を費やした。大きな政策転換は、自分たちの 「商品」 は “ハンバーガー” ではなくて、“ファッション” だというコンセプトに転じたこと。マスコミでの取り上げられ方も、ホットファッション的な扱いだった。これも事実は藤田氏と広告代理店とで仕掛けたマスコミ操作だったのだが…。そして、ターゲット層は大人から子供へ移り、「 楽しさ 」 を売る企業へと転化していったのである。
出店戦略はダウンタウン(繁華街の一等地)にターゲットを絞った。1971年7月には、KFCが青山店をオープンさせて、行列ができる光景も目にしている。FF業態での日本におけるダウンタウン出店方式は、その後のアメリカFF業態でも実践され成功している。そして、マクドナルドは、1975年に年商100億円を突破、84年には1000億円に達する。1990年には全国制覇を果たし、今なお成長過程にある。
2号店、3号店の失敗はすかいらーくも経験済みだ。ひとつの外食産業成功法則ともいえる現象である。失敗しないに越したことは無いかもしれないが、失敗したことによって、逆に強さを手に入れることも真理なのである。
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