
昭和53年(1978年)に同社にとって3店舗目となるカフェレストラン 「 チャーリーブラウン 」 を出店した。これまで6坪、16坪と順調に店舗規模を大きくしてきたが、ここで50坪・100席という大型店舗を出店したのであった。しかも投資金額は当時の金額で5,000万円という莫大な額であった。
開店当初こそ、損益分岐点をクリアしていたが、数ヵ月後には全く届かなくなっていた。アイデアマンの宮下氏は思い切って居酒屋に業態変更を行った。「 松乃湯 」 と言う屋号も珍しいが、タイル張りのカウンターに皿の代わりに風呂桶を使ったりと、店自体を銭湯に見立てた珍しい居酒屋であった。しかし、この店も長続きしなかった。なんと開店から 11日で閉店を迎えることになるのである。その後、幾度と無く業態変更を繰り返し、試行錯誤を繰り返していたが、借金は膨らみ続けるばかりであった。7年間もがき苦しんできたが、とうとう力尽き、閉店に追い込まれた。この時、負債総額は1億円を大幅に上回っていた。もちろん預貯金類は全て使い果たしていた。
宮下社長は、この時の心境をこのように語る。
【宮下社長】 もうどうにもなら無かったですね。預貯金はもちろんの事、簡易保険や子供の学資保険まで解約しても全く足りない。今で言う自己破産状態でした。残っていたのは保険金2億円の民間の生命保険だけでした。
「 もう死ぬしかないな 」 とこの時思ったのです。ただ、決して世を儚んで死を選んだわけではなかったのです。「 なんだ、まだ俺の価値は2億円もあるじゃないか 」 と考えたわけです。前向きでしょ(笑)。2億円あれば、借金の返済だけではなく、従業員の退職金の支払も当面の家族の生活費も出るんですね。それで、仙台新港に車ごと飛び込もうと思って、向ったのです。
しかし、外食の神様は、宮下氏を見捨てはしなかった。
【宮下社長】 仙台新港の近くに 「 ニュー宮城 」 というパチンコ屋さんがあったのですよ。所持金は500円。2億円も遺すのだから最後に500円位楽しんでもいいだろうと思ってね(笑)。そしたら、出ちゃたんですよ。ドル箱が山積みに・・・、4万7千円も勝ってしまったのです。周りの人は大盛り上がりで 「 おめでとう 」 とか 「 凄い 」 とかね。それにこれだけあれば、1ヶ月は過ごせるなと思って、自殺は止めにしたのです(笑)。
人生というのは、不思議なもので、ここから色々な事が好転して行ったのです。3号店を借りる時に3,000万円の保証金を入れていたのです。当時は、次の方が決まるまで保証金が返って来なかったのです。それまでなかなか次の人が決まらなかったのに、自殺を止めて1週間後に、奇跡的に決まちゃったんです。これで、当面の資金調達ができたのです。
この頃、宮下社長の外食事業に対する考え方を大きく転換する出来事があった。苺狩りに行った時の事である。その場だけではなく家に帰ってからも子供たちに苺を食べさせてあげたいと思った。そこで、当時お金が無かった宮下社長は、苺をポケット一杯に詰め込んで持って帰
ったのである。しかし、家に着いた時にはポケットの苺は潰れてぐちゃぐちゃになってしまっていた。
【宮下社長】 この時、「 はっ 」 としましたね。それまでは自らベンチャーの旗手だとか言って、お金儲けの事しか考えていなかったのですよね。「 水商売 」 だから飲食業は大嫌いだと思っていた。でも潰れた苺を見ていると、お客様の心と重なって見えてきたのですね。苺ってハートの形をしているでしょ。しかも、苺は傷みやすく、大事に取り扱わなければすぐに駄目になってしまう。だから、お客様に対するホスピタリティを大切にしていかなければいけない。それをする事によって幸せが来るのだ。これからは一期一会の精神でお客様に接して行こうと。この時からですね、飲食業に真剣に取組もうと考えたのは。
心機一転で外食事業に取組み始めた宮下社長は新しい業態開発を考えていた。その時点では、ホームパーティ用のケータリング事業を行っていたが、なかなか軌道には乗らなかった。当時東京では、ホブソンズやサーティワンなどのアイスクリームショップが活況を呈していた。ケータリング事業でアイスクリームも扱っていたので、アイスクリームショップの 「 STRAWBERRY CONES(ストロベリーコーンズ) 」 荒町通店を開店した。昭和61年(1986年)の事であった。
ストロベリーコーンズは、開店時より、特に若い女性の支持を得て活況を呈した。しかし、東京に比べて仙台の冬は寒さが厳しい、冬になると客足が落ちてしまうだろうと考えた宮下社長は更に次の業態を考えていた。前年の昭和62年(1985年)、東京の恵比寿にドミノピザの1号店がオープンしていた。その3年前(1982年)に公開された映画「E.T.」の一場面でも宅配ピザが使われていた。更に、ケータリングのメニューでピザもやっていた。機は熟していた。しかし、米国のピザは脂っこすぎて日本人の口には合わないだろうと考えた。そこで、宮下社長は、日本人の口に合う、いわば 「 Made in Japan 」 のピザを作り出した。
そして、同昭和61年(1986年)11月に、ストロベリーコーンズ荒町通店をピザ・アイスクリーム宅配の店に業態変更を行った。同時に社名を日本シンク株式会社から株式会社ストロベリーコーンズに商号変更を行った。
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