日本のクリスマスには欠かせない存在となったケンタッキーフライドチキン。ご承知のように、「クリスマスにチキンを食べる」という習慣は日本だけのもの。これは、販促活動の一環として、1974年に日本ケンタッキー・フライド・チキン(KFCJ)がスタートさせた習慣だが、企業キャンペーンが日本の食文化へと花開いた希有な例といえるだろう。
このクリスマスキャンペーンをはじめ、爆発的に店舗数を拡大させた同社の黎明期の戦略は、日本独特の文化やマーケットにいかに適応するかが課題であったという。ケンタッキーフライドチキンならびにKFCJの歴史を踏まえながら、日本文化に向けた同社の企業戦略や理念を振り返ってみよう。 |
| 第 2 回 |
 挫折から栄光へ 日本市場への適合を目指したKFCJの戦略
~アメリカ的手法からの早期脱却が成功の鍵に~
日本におけるケンタッキーフライドチキンのスタートは、1970年3月から大阪で開催された日本万国博覧会会場(アメリカ館)に実験店が出店されたことが、そもそものはじまり。3月から9月までの会期中、売上は好調に推移、1日280万円を記録するなど大成功を収めた。そして、万博期間中の7月に日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社(KFCJ)が誕生することになる。
KFC第1号店は、同年11月に名古屋市西区にオープンした「名西店」である。ショッピングセンター敷地内に位置するいわゆる郊外型店舗で、車で買いに来る利用者を想定していた。万博の地であり、KFCへの認知も高かったであろう大阪の東住吉と枚方に、2号店・3号店
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日本1号店メニュー
「指までなめちゃうおいしさ!」
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を立て続けにオープンするが、いずれの店舗も1日あたりの売上2~3万円程度という苦戦が続いてしまう。その原因は、アメリカでポピュラーだったドライブインスタイルの郊外型店舗をそのまま持ってきてしまったことだ。70年初頭の国内の自家用車保有率はわずか20%程度。当たり前といえば当たり前の話だが、お客さんが来られないところに店を出しても売れないというわけである。
駅前などの繁華街立地型に方針転換するのは、71年4月に開店した神戸の4号店から。アメリカ店舗の3分の1のスペースの厨房を開発するなど、日本のマーケットに合わせたコンセプトで再スタート。7月には東京・青山店をオープン、東京進出とともにいわゆる山の手から繁華街へと出店するようになる。万博での成功例があるように、フライドチキンの味自体は日本人の好みに合うことは折り紙付き。この方針転換が奏功して、KFC人気は高まり、一気に多店舗展開へと進んでいく。73年12月には100号店が開店、FC展開が本格化した78年から80年にかけてはわずか1年半でおよそ100店舗をオープンさせている(80年度末に300店達成)。その後、88年にはKFCチェーン総売上が1,000億円を突破。92年には、総店舗数1,000店にまで成長を遂げ、バブル経済崩壊の影響が出る92年まで連続して増収増益を続けた。ちなみに、この繁華街立地型店舗は、アメリカ本国にこそないものの、KFCが韓国や台湾などに進出した際に、KFCJがアジア太平洋地区のヘッドクォーター的な役割をしていたこともあり、日本の戦略を引き継いで多数開店している。
なお、バブル崩壊後も、現在で言うところのファストカジュアル風な店舗形態を採り入れたり、ホームデリバリーを開始したり、スキー場やスタジアムなど特殊な立地へ出店するなど、その時々の日本の風土・文化に対応した展開に力を入れている。
~時代の移り変わりを捉え、郊外型店舗へ再チャレンジ~
KFCJの拡大路線の歴史を語る上で、もうひとつ欠かせないエポックがある。1977年に東京都東村山市の新青梅街道沿いに誕生した、日本最初のドライブスルー店舗である。それまでにもドライブイン店舗は数店存在していたが、当時のKFCJの基本戦略は繁華街立地。しかし、この頃になって初めて日本のモータリゼーション化が浸透し、車で出掛ける人々を取りこめるようになったのである。この成功をきっかけに、改めて郊外への出店を加速し、KFCJの中心的店舗形態となったのである。
日本進出当初の失敗を無駄にせず、日本マーケットの実状を的確かつ柔軟に分析し対応できたことがKFCJの成功の礎となっているのである。
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